お墓参りの意義は「報告する」こと

2011/07/14の話

お盆ということで本日、母方の爺婆のお墓参りに行ってきた。


僕は爺と会った記憶はない。婆はある。

婆生んでくれてサンキュとは思うが、お墓参りにそれ以上の意味はないなと思っていた。


お墓の維持費だとか、お墓参りのための時間やお花の出費とか、お墓のある敷地を住宅のための敷地にしたらどれだけになるだろうとか、そんなことばっか最近は考えていた。


しかし、本日、母の一言から、少し考え方を改めた。

「就職先も決まったことだし、ちゃんと婆に報告しなさいよ」

……何気ない、お墓参りであれば、当然の光景。


僕の頭は「先祖に報告する」ということに、食いついた。

お墓参りにおいて、僕が意義を見出すとすればこれだと思った


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お墓参りは「先祖に対し、報告をする」ということが一番大事なことだと思う。

これは、他の宗教で言う神の存在に近いのかとも思った。


「神に、自身の日ごろの行いを報告する」というのと多分、同じ。

まぁ宗教観云々はここでは問わない。


大事なのは、生き死にや存在の有無を問わず「報告すべき相手がいる」ということ。

そして、その人に対し自分の行動や人生を「報告する機会がある」ということ。


報告する相手は、学校の先生、何らかのレッスンのコーチ、先祖、神様、恋人、家族……誰でも良いが、なるべく自分がお世話になった人や、尊敬できる人が良い。


誰かに報告するということは、「自分の人生を自分だけのものと考えない」ことである。

報告する相手にとっても誇らしいと思える人生を送るということである。


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「自分の人生は自分のもの。自分さえ良ければ良い」

これは多分、最近はやりの考え方、価値観だと思う。


悪いことではないけれど人によって人生大違いだと思う。

最高に素晴らしい人生になりうるが、最低最悪の人生にもなりうる。


自分の行動や人生について誰にも報告しなければ、自分の人生を見直す、歯止めをかける機会を自分で作らない限り、ない。


誰にも報告しなければ、「俺の人生、何をしたって勝手」だ。

誰に恥じることもない。誰に威張ることもない。好きなように生きれば良い。


それは当然ながらプラスにも働くし、マイナスにも働く。

好きなことをやって大成する人もいれば、破滅する人もいる。


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報告する相手がいると、少し状況は変わる。


何かをする際、「自分の勝手。何したっていいや」ではなく、少なくとも報告する人に対し、それが誇れることか、恥じないことか、そんなことを考えるはずである。


報告する相手がいることで、自分の人生を、「自分だけよければ良いや」と考えるのではなく、「自分とその人に対しては良いと思える人生を送ろう」と考えるようになるはずである。


これは人生にとって、プラスを阻害することがあるかもしれないが、マイナスを阻止することも期待できる。

私の人生を、自分だけではなく、他人も見ている。そう思えれば、人に対し恥じることを極力減らそうとするだろう。なるべくなら、誇れることをしようと思えるだろう。


これが、墓参り「先祖に報告する」ことの意義だと僕は思う。


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「他人から見ても良いと思える人生」、「何かしら自信をもって報告ができる人生」を目指すことは、大変だ。大変だけれど、報告する相手がいるから、頑張れる。道を踏み外さない。そういうことを意識できる。


「自分さえ良ければいいや」というのも悪くはない。人生、自己管理100パーセントであり、素晴らしい人生を送ることも可能だろう。だが、自分の人生を見ているのは自分だけであり、自分が折れれば、それでおしまい。落ちるところまで好きなだけ落ちることもできる。


自己管理できない体たらくな人間にとって、外に心の支えを置くことは有効。

つまるところ、サボりがちな僕にとっては、とても重要で、必要な支えとなる。


「神の教えに従順に従う」……的なのとは、ちょっと違う。

「自分の人生、神さえ認めてくれれば良い」ってのも、ちょっと違う。


自分にとっても良い人生だと思えないと、僕は嫌だなと。

神に従って生きて楽しいのかな、と僕は思ってしまう。


まぁ知識不足で、神様を単に毛嫌いしているだけなのだけど(ごめんなさい)。


傲慢でも何でも良い。自分の人生は自分の好きに生きたい。

別に、報告する相手にとっての素晴らしい人生100パーセントを目指す必要はない。

ただ、自分が負けそうなときに、報告したい人の顔を思い出せばいい。


そういう位置づけで良いと思う。


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「お墓参り」でググってみると、マナーとか形式とかが目についた。


お墓に入っている人への礼儀とは書いてあるけれど、違うよなと思う。

ググっている人にとって大切なのは、お墓参りを一緒にする周りの人たちへのポーズ、礼儀という点での大事さだと思う。


それはそれで大事だけど、それは二の次だと僕は思う。

「自分の人生を報告する相手がいる」こと、その機会がある、それが大事じゃないかと。


「報告したい相手」を意識することで、僕の恥多き人生を少しは改善していけるかなと思う。

僕には先祖だけでなく、今、目の前にいる友達に、できたら僕の人生を報告したい。


自分のために、かつ、彼らのためにも、ちょっと自分の人生を見つめ直そうと思った。

そんな、夏のひと時。


皆さんには「報告したい相手」いますか?


以上。