太宰治2

太宰治生誕100年:新春座談会/下

http://mainichi.jp/enta/art/news/20090106dde018040037000c.html

 斎藤環さん 太宰作品の普遍性は、手際とか技術、身ぶりといった側面にもあります。「『自意識系のはしか』的な理解はそろそろ終わりにして」という議論もある。

 でも、今、改めて若者に受け入れられるのは、自意識系の読みでしょう。こうした読まれ方をする作家は、佐藤友哉さんや滝本竜彦さんら、最近の若い人でも結構います。いわば「ひきこもり系」です。彼らは、徹底してフィクションでしかない話を書きますよね。佐藤さんはミステリーを書いたし、滝本さんも……。


 川上未映子さん ドラえもんみたいな女の子が出てきて……。


 斎藤 そうそう(笑い)。そういう話で、濃密に作家の自意識を投影する。私小説の枠組みがいらない。太宰も実はそう。純粋なフィクションに、読者は自意識を読み込む。今の30代半ば以下の若者カルチャーには、この語りが読まれやすい雰囲気がある。

 要するに加害者意識です。自分には決定的に劣った属性があるから人々に迷惑をかけてしまう。けど、生きていかざるを得ない。この意識は、太宰と重なるところもある。

現代の若者、「ひきこもり系」

 安藤宏さん 引きこもりの場合は、全く人と懸け隔たっていたいのではなくて、隔たっていながらつながっていたい感覚もあるのでは。『人間失格』の主人公と近い?


 斎藤 太宰には、一貫して、人間に引かれながら嫌悪するという二律背反がある。つながろうとすると自分の加害者意識が出てきてしまう。ただし、太宰が引きこもりと違うのは、彼は、一人でいられない人だったことです。引きこもりは孤独にとても強いから、共同体から離れていられる。

人間が好き、嫌い。ひきこもりは孤独に強い。

 川上 自分については本当のところはどう思っているんでしょうか。


 斎藤 無価値。


 川上 無価値だと思う自分が強くあるんですね。


 斎藤 口から出るのは全部が自己否定の言葉だけれど、端からはナルシシスティックにも聞こえる。太宰も、非常に自己否定的だけれど、同時に自己愛的ですよね。


 安藤 それは共通していますね。『人間失格』の主人公は、傷つくことの防衛的予知能力が強い。本当には傷ついていないのかもしれないんですよ。『人間失格』にはさほどの悪人は出てこない。偽善者だって、考えてみればごく普通にいる人です。


 斎藤 単なる自意識のすれ違いやちょっとした偽善で、人間失格と言い切ってしまう美学ですね。それが反転してナルシシズムに行き着く。

自己否定と自己愛。

 川上 『魚服記』や『斜陽』に近親相姦(きんしんそうかん)のモチーフが少しだけ出てきますよね。


 安藤 共に滅びを演じることによって、言葉で観念共同体を作るような感性がある。

共に滅びよう。共同体

 川上 「ゼロリセット願望」ってありますよね。自分だけゼロになるのは嫌だけど、みんな一斉になら大丈夫で。


 斎藤 通り魔殺人なんかは、そうかもしれません。また、自己愛を否定形でしか表せない人同士が連帯を希求するなら、共に滅びる方向しかないんじゃないでしょうか。


 安藤 必然性があるわけですね。ある意味では非常に自足しているのだけれども激しく相手を求める部分もある。だから極端になる。


 川上 手段としては自虐的に振る舞うしかないけれど、本当は承認されたい。でも、それで共にダメになったら承認も何もなくなるけれど。


 斎藤 究極の承認は共に溶け合うことですから。映画「新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に」(97年)なんかがそうですね。


 川上 やはり溶け合うといっても、自分が本当にダメになってはいけないんですね。溶け合ってるのを自分だけは認識できる程度じゃないと……。条件つきの承認。


 斎藤 「共にダメになる幻想」を持ちやすいのは、匿名で他者とつながっているときでしょう。その意味で、今のインターネット空間は錯覚に陥りやすいところがある。

拒否と承認。極端。

 安藤 どうやって言葉で間接的なつながりを確保するかという問題なんでしょうね。みんな、自分を知ってもらいたい。でも、直接的なやり取りは避けたい。だからブログで、となる。ネット社会だからこうなったというより、こうした志向がネット社会の文化を作ったのだと思う。


 斎藤 その通り。太宰の文体は相手を直接説得するよりも、ちょっとすねてみせたり、ブログ文体に近いですね。

間接的なつながり。が、良い。近づきすぎるな。傷つきたくない。

 川上 安藤さんは、以前、境遇や環境が文学を決めるのではなくて、それを説明する文体やキーワードが文学を決めるのだというお話を書かれていましたが。


 斎藤 井伏鱒二とか昔の作家は、若いうちに苦労をした人が多いわけじゃないですか。でも、太宰は長期間仕送りを受けて、ニート的状況を延長できましたよね。太宰作品は、モラトリアムの産物という気がするんですよ。せっぱ詰まっていたら、もっとタフな、坂口安吾的な感じになったんじゃないでしょうか。


 安藤 たとえば川端康成を決定したのは孤児の環境だとか言うけれど、別に同じ境遇の人が、皆同じものを書くわけではありませんよね。だから、原因探しをしても始まらないのではないかと。結局は自分にまつわる物語をどういうレベルで作るのかという、言葉の問題だと思う。斎藤さんは、引きこもりについて「原因探しをしてはいけない」とおっしゃっていましたが。

原因どうこうではなく、結局は、どう書くか。

 斎藤 問題はある環境の下ではぐくまれる関係なんです。ところで、ニートが「勝ち組」に向ける意識は、太宰と志賀直哉の対立に近いんじゃないでしょうか。堂々とした人に絡みたくなる感じが。


 安藤 『風の便り』は、しがない中年作家と大家との往復書簡ですね。大家のモデルに志賀直哉を想定すると面白い。志賀の存在はある意味、文壇では決定的だった。若い作家は、彼の作品を正座して写して小説修業をしていたわけです。ちょっと、今となっては分からない感覚ですが。


 川上 そういう確固とした絶対性を、太宰は好きなんだけれども「不愉快だ」とか文句を言うんですよね。

反逆意識。

 斎藤 最後、川上さんにうかがいたいのは『きりぎりす』や『女生徒』など女性一人称の小説について。男は「女性が引き込まれる文体なんだろう」と思うわけですが。


 川上 それ、幻想です。


 斎藤 幻想か(笑い)。


 川上 もちろん下手とは思わないですが、どう考えてもおじさんの文体で……。『斜陽』の冒頭なんて、(お笑いコンビの)ダウンタウンのコントみたいで面白いんですけど。ダメになる男とツッコミを入れる女性の構図は、すてきだと思うんです。女性視点というより、視点が二つある。でも、もう一つの視点は、親友の男の人でも全然いい。感嘆するのは、女性の語りだからではないんです。でも当時は、女性としての語りの巧みさが評価されてたんですよねえ……。もちろん男性から。


 安藤 ひところは、「女性以上に女性らしい」と論じる人たちの女性像に、偏見がありました。でも、「自意識系のはしか」の話と同じで、時代は一回転しているのかもしれない。


 川上 ひょっとして私も今、改めて『女生徒』を読めば、「すごく女の人の気持ちが分かっている!」と思うのかもしれませんね(笑い)。

女の視点?

太宰治(だざい・おさむ)

 1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市金木町)で大地主・津島家の六男として生まれた。本名・津島修治。坂口安吾織田作之助らと並び「無頼派」と呼ばれ、代表作に『晩年』『走れメロス』『お伽草紙』『斜陽』など。


 学生時代から自殺・心中未遂を繰り返し、『人間失格』を書き上げた直後の1948年6月13日、東京都北多摩郡三鷹町(現在の三鷹市)の玉川上水で女性と入水自殺した。作者の自意識が見え隠れする文体は、人間関係の希薄な「ネット社会」を生きる現代の若者を中心に読まれ続けている。


毎日新聞 2009年1月6日 東京夕刊