ほぼ日刊イトイ新聞

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糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

今日のダーリン

5/26(火)

ぼくが、ここで、こうして毎日書いていることも、
 まったくそうなんですけれど、
 「わたし」というものを、
 まったく関係なくしたままでも
 文章は書けてしまうわけです。
 
 「今日はいい天気です。」には、
 多少の「わたし」がいます。
 「いい天気」の「いい」を感じている「わたし」です。
 「今日は晴れです。」に、「わたし」はいません。
 ‥‥というようなことは、ぼくが、いま、
 「わたし」をなるべく削り取ったままで、
 「わたし」のいるいないについて書いているせいで、
 ここまでの文章には、ほとんど「わたし」はいません。
 
 お国の大事について語ることも、
 世界の平和について演説することも、
 歴史的な偉人についての研究を発表することも、
 芸能ニュースについておしゃべりすることも、
 同情すべき他人について訴えることも、
 「わたし」のいないままで、いくらでもできます。
 同じ日本語ですから、
 「わたし」が、いようがいるまいが、
 そのちがいもわかりにくいものです。
 
 ぼくも、そうしていますけれど、
 まるまる全力で「わたし」のいる文章だけ書いていたら、
 おそらく社会で生活できなくなるので、
 「わたし」をしょっちゅう外してものを言います。
 だけど、「わたし」を外すことを習い性にしてしまうと、
 「わたし」は、蒸発してしまうように思うんですよね。

 いや、なんでこんなことを書きはじめたかというと、
 鹿島茂さんの『吉本隆明1968』という本を読んでて、
 こんなふうに、しっかりと「わたし」を置きながら、
 吉本隆明さんのことを書くのって、いいなぁ、と。
 私小説ならぬ、「私評論」というふうなスタイルが、
 読んでいて素直にこころに響いてくるものですから、
 考えはじめてみたんです。
 この本には、著者の鹿島さんという「わたし」と、
 読者の「ぼく」という「わたし」と、両方がいます。

毎日、いろいろあるものです。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。

琥珀色の戯言
2009-05-26
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090526
[WEB]ネットの中の「わたし」
より