被災地にいない僕がすること、しないこと。

201103140145更新
はてな人気エントリーから、まとめ。
被災地にいない一般人の僕が、被災地のために考えて、すると良いこと、しない方が良いこと。
その他考えメモ。


渡辺由佳里のひとり井戸端会議: いま、黙っている理由
http://watanabeyukari.weblogs.jp/blog/2011/03/earthquake.html
一部引用

3月11日の地震以来、胸にこみあげるものはいっぱいあります。でも、ツイッターでは、知人の安否を確かめるためにDMを利用するだけで、公ではあまり語らないでいます。


その理由は2つ:
1)私などが言って役に立つことがない。
2)正直な気持ちを書くと、説教じみた言葉になってしまうから。


とくにふたつめについて。


「日本の米軍は何もしてくれない」とか「原発メルトダウンをなぜ最初から予測していなかったのか」とか「政府は何もせずに眺めているだけ」といったツイートを読むと、悲しくなるからです。


〜中略〜


テレビに映っていない努力のほうが多いのです。


〜中略〜


ひとつだけ確かなことは、いま文句を言うことで事態はよくならないということです。


なぜなら、これが終わったら、またみんな普通の生活に戻り、自分で率先して行動するなんて、考えないからです。そして、次の惨事が起きたら、また文句を言うことで満足してしまう。


〜中略〜


遠く離れている人びとが「何かをしてあげたい」と物資を送りたくなる気持ちは分かります。


けれども、ぜひお願いしたいのは「物を送らないこと」。いろいろな提案はごもっともですが、あえて言います。


現場が必要に応じて柔軟に対応できる「お金」だけにしましょう。


今はまだ、被害の査定をし、何がどのように必要なのかを現場が分析しているところでしょう。そこにいろんな「物」が来てしまうと、かえって迷惑です。それを仕分けするための人も必要になりますし、運送にお金も手間もかかります。何よりも「使えないもの」「要らないもの」はゴミになります。役に立つよりも、迷惑になることのほうが多いのです。


〜中略〜


けれども、寄付をしなければならない、と言っているわけではありませんので、誤解のないよう、お願いいたします。既に経済的に大変な方はたくさんいらっしゃると思います。「物資を送りたい」という強い気持ちがある方は、切手代と同じ金額を送るほうが役立つかもしれない、というご提案です。



「節電する」「罹災地への電話を控える」「みんなの無事を祈る」...など、いろいろな形があると思いますので。

テレビの情報は影響力がある。
しかし、視聴できるテレビ局の数の映し窓があるだけ。
取材班は全力で各地を報道する。それでも、使われる映像は一握り。
私が見られるのは、その見ているときに放映されているものだけ。
真実は見えてるものだけじゃない。



[NS] 災害時、あなたの善意で、人が死ぬ
http://n-styles.com/main/archives/2011/03/12-154613.php
一部引用

※被災地以外の方のために書かれた文章です。被災地の方は他の有益な情報を見てください。


〜中略〜


災害時の誤報やデマは必要なリソースを奪われ、助かるはずだった人が助からなくなるおそれがある。


〜中略〜


チェーンメールは1通送ると大量に広がっていく。行き交うメールの量が増えすぎると、混雑して必要な安否確認などの本当に必要なメールがうまく届かなくなる可能性がある。


また、Twitter等で不必要な情報やデマがなんども出まわる現象がおきている。
それが非公式RTだと出回った情報が改変され、大元のソースが不明になってくる。せめて公式RTをするようにすべきだし、そもそもその情報を広める必要があるかどうか深呼吸して考えてからにした方がいい。


〜中略〜


真偽確認を一切行わないで入ってきた全部の情報を垂れ流して、受け取った人が判断すればいいという判断を下している人もいるようだが、個人的には感心できない。

「確認してから言え」とかいうバカが多いが、読みたくなければ読むな。災害のときは、不確かな速報も必要なんだよ。放射能あびてから確認とってもしょうがないだろ。
http://twitter.com/ikedanob/status/46491222621163520


どっちがバカだ。


1分で真偽を確認できるような明らかなデマも多い。その1分の手間を惜しんで脊髄反射で転送すると、真偽確認の手間を転送先の人に押し付けることになる。1分で済んだはずの手間が数分、数時間の無駄を産んでいく。情報を広めるということは、真偽確認の手間もオプションとして付いてくることを常に考慮して欲しい。


〜中略〜


また、被災地への支援に関しても、適切な方法をよく考えよう。
物資に関しては逆に迷惑になる可能性が高いことを十分に考えて欲しい。

「自分が被災者だとして、それを貰ってほんとうに嬉しいか」を基準に考えるといい。


〜中略〜


また、「ほんとうに必要な人にその物資が渡るまでどの程度のコストがかかるか」も考えるべきだ。


〜中略〜


災害時に必要な自社製品を法人がトラック単位で送るのであれば、喜ばれると思うが、個人から物資を送るのは無駄が多すぎる。


現地に送る支援物資で最強なのは現金だ。


〜中略〜


長々と書いたが、要は「余計なことをするな」の一言で収まる感じ。


「情報をフィルタリングしてあえて流さない」「物を送るのを我慢する」という選択をすることで、救える命があるのです。


追記:
放射性物質漏れに関わることだからという理由で、池田信夫氏のツイートを擁護している人がいるが、緊急事態だからこそデマの拡散に手助けするような真似を支持することはできない。


擁護している人たちは、たとえば「危険だから半径30km内の人は今すぐ家から出て逃げろ」と池田信夫氏が書いたらそれを善意でRTして広めるのだろうか?
それでパニックが起きて事故が起きたら?道路が混雑して緊急車両が動けなくなったら?


「災害のときは、不確かな速報も必要」というのは、そういうパニックを引き起こす危険な考え方であると理解して欲しい。

最大の被災地でない場所では、災害を種にコミュニケーションに使う人が多い。思いを共有したいと思うのだろう。孤独なのだろう。不安なのだろう。安心したいのだろう。


ただ、いくばくか安全を確保できたら無用な発言は控えるようにしたいと僕は思った。


▼自分の安否報告。
僕がネットで人のために発信できるのはこんなもの


ネットで収集する情報はあるだろう。
▼家族友人知人の安否確認。
▼避難地etc
とりあえず、リアルでできることをまずする。余裕があれば他人を助ける。


情報は有識者の声に耳を傾ける。
友人とのコミュニケーションは日常に戻ってから目一杯すればいい。非日常時は重要な情報を優先、人命優先。


(いつ日常に戻るのか)


落ち着こう。「バカ」という言葉などはどんな意図で発言したにしろ、不快に感じる受け手は多い。
受け手を切り捨てないで。煽らないで。冷静に協力を求めると良い。


例えば、節電を呼びかける「ヤシマ作戦」は素晴らしいユーモラス。エヴァを知っている人であれば、心を掴まれる、関心を惹きつけられる。そんな気がなかった人も気軽に参加できる。


形はどうであれ、マイナス方向に人を向かせる情報よりも、よっぽど良い。


被災地、当事者になったらおそらく余裕はない。いち早く安全、安心を得られる行動をとる。いち早く安全前進が得られる有力な情報を集める。



未曾有の災害のときに (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2011/03/13_1020.php
全文引用

3月13日
東日本巨大地震から三日目。
朝刊の見出しは「福島原発炉心溶融の恐れ」と「南三陸町で1万人行方不明」。
16年前の大震災を超える規模の国家的災厄となった。
これからどうするのか。
このような場合に「安全なところにいるもの」の基本的なふるまいかたについて自戒をこめて確認しておきたい。


(1)寛容
茂木健一郎さんも今朝のツイッターで書いていたけれど、こういう状況のときに「否定的なことば」を発することは抑制すべきだと思う。
いまはオールジャパンで被災者の救援と、被災地の復興にあたるべきときであり、他責的なことばづかいで行政や当局者の責任を問い詰めたり、無能力をなじったりすることは控えるべきだ。彼らは今もこれからもその公的立場上、救援活動と復興活動の主体とならなければならない。不眠不休の激務にあたっている人々は物心両面での支援を必要としている。モラルサポートを惜しむべきときではない。
「安全なところにいる人間」と「現地で苦しんでいる人間」を差別化して、「苦しんでいる人間」を代表するような言葉づかいで「安全なところにいる人間」をなじる人間がいる。
そういうしかたで自分自身の個人的な不満や攻撃性をリリースすることは、被災者の苦しみを自己利益のために利用していることに他ならない。
自制して欲しい。


(2)臨機応変
平時のルールと、非常時のルールは変わって当然である。
地震の直後から各地では個別的判断で、さまざまな施設やサービスが被災者に無料で提供されたし、いまも次々と申し出が続いている。
こういうときこそルールの「弾力的運用」ということに配慮したい。
16年前の震災のとき、雑貨屋で私がガソリンストーブ用の燃料を買い求めてレジに立っていたとき、「屋根が落ちて雨漏りがする」というのでブルーシートを買いに来た女性がいた。店員は私の燃料代は定価で徴収したが、彼女には無料でブルーシートを手渡し「困ったときはお互いさま」と言った。
彼のふるまいは「臨機応変」のすぐれた実例だろうと思う。


(3)専門家への委託
オールジャパンでの支援というのは、ここに「政治イデオロギー」も「市場原理」も関与すべきではない、ということである。
国民国家という共同体が維持されるために必要な根源的な資源のことを「社会的共通資本」と呼ぶということは、これまでもここで繰り返し書いてきた。
森林や湖沼や海洋や土質といった自然資源、上下水道や通信や道路や鉄道といった社会的インフラ、あるいは司法や医療や教育といった制度資本については、管理運営を専門的知見に基づいて統御できる専門家に「委託」すべきであり、これを政治的理念の実現や市場での取引の具に供してはならないという考え方のことである。
災害への対応は何よりも専門家に委託すべきことがらであり、いかなる「政治的正しさ」とも取引上の利得ともかかわりを持つべきではない。
私たちは私たちが委託した専門家の指示に従って、整然とふるまうべきだろう。


以上三点、「寛容」、「臨機応変」、「専門家への委託」を、被災の現場から遠く離れているものとして心がけたいと思っている。
これが、被災者に対して確実かつすみやかな支援が届くために有用かつ必須のことと私は信じている。
かつて被災者であったときに私はそう感じた。
そのことをそのままに記すのである。

まとめ。

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雑記
日本人の協調性、同調圧力はすごい。
日本の環境がそうさせているのだろう。
地震や台風、個人では敵わない天災を誰もが経験するからこそ、結託しようと、皆で乗り越えようと思える。


天災がない、少ない環境、国では、こうはならないだろう。
天災の経験が少ない人、想像できなかった人もそうだろう。
「個人ではどうにもならないことがある」
その経験が人を結ぶ。
いつかどこかの評論で読んだ。


子供よりも経験の多い、修羅場をくぐってきた大人の方が強調しようとするのは当然だ。子供は日常であれば、チームスポーツなどを見たり、学校生活の中で協調性の必要性を学んでいく。プラスして、こういう実際の経験を得て、協力の必要性を実感する。


そういう経験がなかった人。協力する必要性を実感できなかった人は、自分が普段通りの行動を行ったつもりでも「なぜ協力できないんだ」と痛い目に会う可能性がある。
日本では圧倒的に「非常時は協力すべき」という人が多い。実際にそうすると全体として強いのだろうけども、それを感じられずに、個人で育ってきた人には順応しづらく辛い。


ただ、順応するしかない。空気を読むしかない。少数派だから。そういう人もいるよなと受け止められる、そういう考えの人もいるんだよなと飲み込める余裕のある人は、普段ならともかく、危機的状況では少ないだろう。


今、Twittermixiで日常のこと書くと非国民扱いされることについて : TRTR(・Д・;)
http://blog.livedoor.jp/roadtoreality/archives/51713456.html


非日常から日常に戻ったという境界を作るのはおそらくテレビ。テレビが連日、被害報道の限りは、批判を受けたくなければ、不謹慎と言われる行動は自重すべきだろう。


また日常に戻ったら、隣の人も知らない生活に戻るかも知れない。しかし、少なくとも、今回被害を受け、協力を受けた人、協力し合った人たちは、協力する場面があることを経験として蓄えることだろう。


いきなりは変われないかもしれない。今更、人に助けを請えないかも知れない。それでも生きたいなら、必死にしがみつくしかない。緊急事態、考えを切り替える。


生きることを諦めている人は「僕は大丈夫だ。それよりも他の助けの必要な人の所へいってくれ」と言えば良い。どんなに重体でも。英雄として賞賛されるかもね。本人はそんなつもりではなくとも。日本人の美徳に響き、外人は理解できない利他の精神だと賞賛する。……なんて、そうなったら、少しは生きた意味があるのかもしれない。


拾われてない努力、優しさは無数にある。
可視化されなくたって良い。見えるものしか評価できないことがむしろ悲しい。これだけごったに返していれば、仕方のないことだけれど。


日本人の心を理解すること。
倫理的に間違っていても、最大多数の人が助かる手法があるとする。
それは、人命救助の面からすれば望ましいことだ。


しかし、それを行うより、最大多数の人が助からなくても、倫理的に正しいことをして死ぬ方がマシ、というような雰囲気があると思う。死ぬは大げさかも知れないけど、そういうような人は少なくない気がする。


倫理的というより道徳的か。大和魂でも良い。
非効率でも努力や汗が目に見える形で行われることが良い。安心できる。満足度が高い。
目に見えてない努力や効果的な政策というものは視界に入らない。


twitterで高く評価されるのは、美徳が発見されたとき。
普段隠れてしまう、ささやかな思いやりを見つけたとき


ささやかなものも多いけど、それでも、
変化を感じられるギャップは発見されやすい。


「一見すると不良の子が席を譲る」系の話。
普段は営利企業、非常時は無料配布など。


悪いことではない。
確かに感動するんだ。
心が動かされるんだ。
そういう目の前で起きたギャップに弱いんだ。


ただ、その分、常日頃、真面目な人は評価されにくい。
変化がないから。ニュースとしてつまらないから。発見されない。


そういう人がたまにテレビで報道されると、大喝采。日本人の鏡だと。


まぁメディアに取り上げられなくても、日常の中で、同僚や知人に評価されているだろう。それならいいけど。日常の中でも誰にも気づいてもらえないと、悲しいな。


目に見えないことを想像できない、知らない。そんな人が多数派なのだと思う。そりゃそうだ。僕もそうだ。全ての情報を見られるわけではない。


目立ちたがり屋で日本人として評価されたいなら、テレビを上手く利用すること。

テレビは、普段はスポンサー主導でも良い。
緊急時は「見ている人間がどんな情報を欲しいのか」を最優先に考えると多くの人が助かる。


かつ、それを全て伝えるには一テレビ局では限界がある。情報を分担する。いつ誰が見ても、欲しい情報を知れるように(前日記にまとめる)。


生きたいと願う人の気持ちを想像し、被災者になった場合を想像し、できることを、やってもらいたいことをするまで。